昭和四十八年十一月十九日 朝の御理解
御神訓一、「わが子のかわいさを知りて、神の氏子を守りくださることを悟れよ。」
信心は悟りと言われております。悟りというのは肉眼をおいて、心眼を開けと申しますが、心の眼を開くという事。心の眼を開くところから、今まで心の中が詰まるように思うておった苦しい事も、難儀な思いもいっぺんに、それこそ有難い涙にかきくれる程しの、有難さに変わる程しの、素晴らしいものである。
いわば信心の悟りの道です。わかるというのではありません。話を聞いてわかるというだけではありません。お話を頂いて、悟るという事でなければいけません。
※ ※ ※ ※ ※ 先日、正義さんとこのお祭りに参ります時に、祝詞を奏上しなければ、格好がつかないというので、若先生が原稿を書いてきておりましたから、ここで清書をさせて頂いておりました。
その中に御氏子、久富正義というところがあります。あなたの御子、久富正義とこういう意味でありますね。そこを書かせて頂いとりましたら、愛(まな)氏子と頂いた。まな、というのは愛という字、愛しいという字。
正義さんだけが神様の愛しい子であろうか。正義さんだけが可愛ゆうてたまらんと言う神様だろうか。
人間・・・これは本当は、生きとし生けるものであろうが、まず人間は神の氏子とこうおっしゃられるが、もう人類の総てが神様の愛氏子なのであります。愛しい氏子なのです。
信心とは、それを知るや知らずやという事であります。金光様の御信心はそこからはじまるわけです。
そこでいつも申しますように、本当に親孝行がしたい、親に安心してもらいたい。 親に喜んでもらいたいという心がなかったら、本当に金光様の御信心はわかりません。又、おかげも受けられません。本当なおかげは、というふうに申します。
天地の親神様のいわば愛氏子、愛しい氏子、そこでやはり、悟らなければなりません。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ スエ-デンとか、ノルウェ-とか、世界で一番最高に福祉施設が完備しとると言われます。いくら歳をとっても、いうならば、子供が見てくれなくても、国が然も贅沢で、設備、贅沢な賄いをしてくれると言う。いわゆる福祉施設が、今政治家の、日本の政治家の方が、ほとんどそれを言ってますね。
日本のそれは不行き届きですから、それを完全にします。それを約束しますと言ったように申しております。果して、そういう事が本当に年寄りの人間の幸せにつながるだろうか。それは如何にも、歳をとった者は、いわゆる老人ホ-ム、それが、それこそ、楽隠居のような事として、年寄りに向いた、衣、食、住、を国がそれをなしていく。だから、子供を持たんでも、歳をとっていっても、心配がない。不安がない。 だから、いうなら、それだけの事が出来ておるから、まあ結構な事だというようであるけれども、一番世界中で年寄りの自殺者の多いのは、ノルウェ-とスエ-デンだそうです。
いわゆる、生き甲斐をなくするのです。いわゆる生き甲斐喪失者という事なんです そういう結構な施設に入れてもらって、一週間に一ぺんか、十日に一ぺんか、孫やら子供達が会いに来てくれる。
只、それだけが楽しみ。ところが、それを実行しない人達が若い人達の中に沢山出てきた。そこに年寄りが生き甲斐をなくす。生き甲斐のない私は、生活くらい無味乾燥な私はものはないと思う。
何の為に自分は生きているのであろうか。いわゆる子供が親を、親が子を想う思いというひとつの、情念と申しますか、想う心がいつも交流しておる。
親の事を思うただけでも、心が楽しゅうなる。子供のこと思うただけでも、親は喜こばしい。
楢橋渡さんの書かれたものが、正義さんところの座敷に上げてあった。
思親多幸と書いてある。親を思う事が一番幸せだという事です。子供が親を思うただけでも心が躍る。それを思うて見ないものは、それこそ親孝行の幸せ、親孝行の味わいすすらも、味わえずして一生を終わるなどというのは、こんなつまらん事はないのですけれども、そういう人が多い証拠に、孝行したい時には親はなしといった悲しい結果になるのです。
これは、ここではわが子のかわいさを知りてと、自分が子供を持ってみなければわからんという事はない。人の親の無い子供というのはないのですから。
子供が親を思う面も、親が子を思うのも同じこと。ところが、どうしても子供は、可愛いけれども、親はたいして可愛くない。親を大事にしない。
まあ金光様の御信心はね、子供はどげんろくそうにしとってもよいから、親を大切にすれば、絶対子供は親が見て下さる、ああ、子供はね、神様が見て下さる。
せめてね、お道の信心さして頂く者だけでも、ここのところをわからしてもろうて天地の親神様が私共の事を、私共が子を思う、親を思うような、思いのそれを、もっと、もっと大きな、偉大な心をもって、私共の上の事を思うておって下さる。
だと悟らして頂くところから、その親神様に対する、忠義な心というてもいいでしょう、神恩報謝の心というてもいいでしょう。
そこで、例えば、天地の親神様が人間氏子の一人一人の上に、愛情を注いでおって下さる。信心とはそれを悟らせてもろうて、その思いに添うて行く、生き方をさしてもらうところから、成程、親じゃなあ、成程、親神様じゃなあと思えるようなおかげが受けられる。
信心とは神様から何かもらう、親から何かもらう、何かをもらう、おかげをもらいたいばっかりの信心というのは、親から何かを搾取しようとする。
親から何かもらわにゃ損というような心で、只、貰おうという事だけしか考えない それではいわゆる、金光様の子には【】るわけです。
それを、例えば反対に親の思いに添うて行こう、親の思いに添うて行こうという思うになりますから、親本位、神様本位の生き方になりますから、親神様が又氏子本位という事になっくるのです。
まあ、これは一つの道理です。だから問題は実際、自分の実感として、成程、親神様じゃなあとわかる信心を頂いて、いかなければいけません。それはお道の信奉者のいうならば、果たさなければならない運命ですら私はあると思う。
※ ※ ※ ※ ※ 私が一番まあ、難儀の途中の時分でした。沢山な借金を持っておりました。勿論、利払いも出来ない。それで何月何日には利を持って行かんならんというのですけど、持って行けんから断りに行かにゃいけん。
もう、放任しときたいごとある。それこそ逃げて廻ろうごとある。けれども、神様は、必ずその日が来ると断りに行けとおっしゃる。
神様、どげん言うて断りに行きますか。神様がいろいろと口実を作って下さる。私はね、嘘も又方便という事は、そういう場合の事を言うのじゃないかと思うですね。 虚言をあんまり、むごう嘘を言うものですから、もう、向こうの方から、私の顔を見ると、又虚言じゃろうと言われよりました。
まあ、ここで話せばそれだけの事ですけど、もう、こげんじゅつない事はありません。借金の断りくらいじゅつないものはないです。確かに、貧より辛いものはないと昔の人は言いましたけどね、もうこんな辛い事はないです。
もう、とにかく、その人の前に行ってもね、もうとてもその格子戸を入って行けんのです。表まで行ってから、家のぐるりをぐるっとまわってから、元気出して入ろうと思うけれども、もう、とにかく入れない。それでも、もうほんなごて、もう、一生懸命の思いで入らせて頂いて、又その嘘を言うて、実は今日も又払いが出来んから、又、いついつまでがいつも、あまり繰り返すもですから、もう、あんたの嘘は聞きあきたというわけなんです。
又虚言いいに来たかとこう頭から言われました。その日はやっぱりお金を持って行けませんから、断りに行かにいかん。
もうそれこそ、足の重いこと。善導寺から、大城、そして西鉄と利用して、福岡に行きよった。そして、丁度、駅の停留所まで参りましたら、善導寺の教会のすぐ手前に、小川さんという樽屋さんがあった。桶屋さんです。
酒屋の桶を専門になさっておった。私と年配も余り変わらん。丁度あそこで電車を待たせておられる。私もそこへ行ったら、大坪さんどこへ行くかとこう言う。福岡まで。福岡ならあんたの家の前からバスで行きゃ、近かところへと言う。
そのバス代がその時分無かった。幾らかでも始末倹約せねばならない。それから、なかなかお酒の好きな人でしたから、その日も一杯機嫌であった。
大坪さん私は今日三井町にその相撲を見に行った。東京相撲が、地方巡業にやって来た。そして三井町で丁度、照国という横綱が居る時分でした。息子を照国に・・・善導寺に来ました。善導寺に来た時に、息子を抱いて貰うて写真に写してもろうた。 だからその御礼に昨日行ったというわけです。その時分はお酒が買えないのを自分が酒屋に行きよるもんですから、酒屋の奥さんに相談して、よい酒を一本照国に持って行った。頂こうと思うて朝早くから行ったわけです。
ところが相撲を見ながら、一升瓶を傍に置いとるもんじゃけん、それはちょっとくらいよかろうと思うて、飲みよったら一本しまえてしまった。
とうとう照国に会わんなりにあんた、一杯飲みながら稽古相撲をみせて貰いよったら、そりゃ、ちょっと大坪さん、相撲のけいこと言うたら、むげことするばの、もうそれこそ突いたり、押したり、引いたり、倒したり、それこそ投げ散らかして、這いも立ちも出来んごとなって、ごそごそその土俵の上から、降りようとするのを、又引いて捕まえてから、又土俵の真ん中へ立たせて、そうして、叩いたり、押し倒したりして、ちょいと三井町からその時、照国の弟子になるいう人が一人あったんです。
とりかくあれを見たら、とても親はやりはきるまいという話を私にしてくれました 私は、借金の断りに足はもう、それこそ重たい足を引きずるようにしてから行っておる時分の事でした。そころがね、その話を聞かせて頂きよったらね、もう、心がなにかしらんけれども、えらい弾んできた。
ははあ、今こそ私は、神様から土俵の上で引いたり、押したり、いま言う、もう、這いも立ちも出来んごとなっとるのが私の姿であろうと思うたんです。
何の為にそのようなむごい鍛え方をするか、これは少しは見込みがある。これはむごう鍛えや、まあひょっとすると、大関位、ひょっとすると、横綱にでもなれりゃせんかと師匠が目を付けたところから、そんなひどい稽古もつけるのだと。
憎いから鍛うんじゃないと私は気がついた。そしたら自分の心の中が何かしらんけれども、湧き上がるような喜びが湧いてきた。今まで重かった足はもう軽々となって来た。もうその人の借金断りに行く時でも、もう、それこそ意気揚々と言う心で借金の断りに行った。やらせて頂いた。
そしたら、その時はもう向こうがにこにこでした。もう、大坪さんそげん何度も来てもらわんでもよかと。
その内にあんたが払える時に、いっちょ払うてくれんのと。もう来んでもよかばのとそれきりでした。それからもう僅か一年位たったくらい、二年位たったくらいでしょうか。どんどん椛目で人が助かるようになった時分でしたが、その方が福岡の野球場の前で薬局を開かれたという話を聞いとりましたから、それでこの話をすると長うなりますけど、支払を元利揃えて持って行きました。
そしたら、それこそ向こうが下にも置かん、まあ、とにかくまあ上がんなさいというて上げて貰うた。もうとても大坪さんこれをあなたから貰おうと思うとらん。
だからこれはもう持って帰ってくれと。噂に聞くともうあんたの所でどんどん人が助かりよんなさるちゅう話じゃが、あなたがあの時分から、熱心じゃったからと。
もう大変懐かしがって言うてもろうた。それから持って行ったお金は、とうとう払わんずく、それでその後に、高橋さんにお願いしてから、それに匹敵する品物をもって行ってもらいました。
本当に私共がです、例えば心が悟れた時はです、今まで足が重うて、本当に、それこそ【】所に率かれる牛馬が、自分が屠殺場に引かれていく時には、もうなかなか歩こうとしないそうですね。わかっているわけです。足が重い、もう向こう向いて行かれん。それでも神様は行けとおっしゃるから、只泣く泣くやらせて頂いた。
又今日はどげなふうにいわれるじゃいわからんと思うたら、もう家の前に行ってから、中に入られんとじゃから。それでも家のぐるりをぐるぐる廻ってから、もう、それこそ一生懸命の思いで入って、又断りに行った。
いついつまで、待ってくれというような事でしたけれどもです、自分の心がね、もう、それこそ、今土俵の上で、いわゆる鍛われているお相撲さんの弟子の事を思うた時にです、師匠がとてもとても、憎いからこれを押したり、引いたり、叩いたりしよるとじゃない。力をつけて下さっているんだとわかった時、これは私は、ひょっとするとこれは、ほんなごと、これは横綱にはなれんでん、大関位なれるばい。
そういうこの氏子は見込みがあると天地の親神様がおぼしめすからこそ、こういう修行もさせて下さるんだと思うた時に、それがもう有難うして、有難とうしてこたえんじゃった。
いわゆる心の眼が開けた。心に悟りが開けた。今まで悲しい事であり、苦しい事であった事が有難い事になって来た。
それっきり行かんですむような大みかげを頂いた。勿論、それでもやはりその位の行米は払う結果になりましたけれども。
ですから天地の親神様が私共の上に、可愛い、いわゆる愛弟子として、見た立て下さる、そう思うて下さる。だからこそ鍛えても下さる。
してみると、私は、スエ-デンとかノルウェイとか、福祉施設の事を申しました、それこそ蝶よ花よとでも申しましょかね、あれは本当の親の愛じゃないです。
例えば、爺、婆様が可愛い、もう、目の中に入れても痛くないという可愛がり方はあれは盲愛である。盲愛というのです。
本当の神愛、親の愛というものはそうじゃない。親の愛というものは、場合によっちゃ、それこそ冷たいような、それこそ仕打ちもあえてせなければならない。
それは子供が本当に可愛いからである。私はここで我が子の可愛さを知りてとおっしゃるのは、私共が盲愛と間違えてはならない。それは私は天地の親神様の、ああいう、借金の上でわからしてもろうた。
神様が本当に立派な氏子になれよ。立派に育ってくれよ、力も受けてくれよ、徳も受けてくれよという願いがです、そういう、いうならば、ひどいまでの仕打ちを受けてきたんだとわからせて頂いた時に、それこそ泣きながらでも、親のいうならば、袖に縋って御礼を言わなければおられない、心の状態が開けてきた。
それがもう、借金だけの事じゃない。どういう難儀な事が起こっても、これは神様が私を、末は横綱か、それこそ大関にでも育ててやろうという思いがあるからこそ、稽古をつけて下さるんだと思わせて頂くところから、おかげを成程、神様はもう本当に撫で摩りするようなおかげ下さるかと思うと、いわばこちらが間違って行っておるというならば、叩きもなさりゃ、それこそ押したり、引いたりもあります。けれどもそれをどうしたら、むごう親じゃろうかというような頂き方をしては、いつまでたっても、親の思いがわからない不肖の子と言わなければなりません。
親の可愛い思いがこの仕打ちになってくるんだとわかった時に、その親に御詫びをせにゃおられん。御礼を言わなければおられない。
その時にはじめて、そこがわかっでくれたかというところに、親と子が手を取り合うての、いわば本当の親子とういうものがそこにある事になる。
神様と私共とも同じ事が言えれる。肉眼をおいて、心の目を開かせて頂く。
その一つの難儀な問題を通して、心が開けてくる。悟りが開けてきた。今まで苦しい事であった事は、有難い事になってきた。
そこから有難い道がいよいよひらけてくるという事になったのです。これは合楽の場合、だから信心は悟りだと言われるのですから、私共が悟らせて頂く為にです、もうこの位でよかろうといったような、苦しみは本当に苦しまにゃいけんです。
神様はそこんところを願ってござる。そこから言わば、何と申しますかね、それこそ地獄の苦しみと思うておった、地団太踏んどった思いがいわば、地獄の釜を踏みぬいたところに、その下に極楽があるようなおかげが頂かれるのだ。
だからそこを通り抜かせて頂く事がです、悟らなければ、とても普通で出来る事ではありません。その悟りの道を教えて下さるのが、私は御教えだと思うのです。
天地の親神様から見れば、いうならば、ここに百人皆さんがおられるならば、百人一人一人に不同のあろうはずがない。
親が子を思い、あの子は可愛い、この子は憎いというはずはない。皆一様に可愛いけれども、片一方の子供は撫で摩りしよるかと思うと、片一方の子は叩きよる。その心の底というものは、皆同じなのだ。
そこをわからせて頂くという事がです悟りというものです。悟りを開かせて頂くところから、有難い道が開けてくる。これは信心以外では悟れない。
信心によってはじめて、その悟りが開かれる。だから悟りを開かせて頂く為に、まあいうならば、神様の心を、天地の親神様の心を悟らしてもらう事が、そこから天地の親神様の心に添う、生き方を身につけて行こうという稽古をしようという気も出てくる。
やはり信心の稽古それは、やはり心の眼を開かせて貰う為に、いうなら、心の眼を開かせて頂く為に、信心の稽古をしておる。それに親から何か貰うごと神様に、何か無理をいうて願う事だけが、神様のような思い方をしているような、信心がいつまでも続いたんでは、それこそいつまでたっても神様がわからんというて、神様が悲しみなさる事であろうとこう思う。
そこがわかってくれたかという時にはです、はじめて親と子と手を取り合うての有難い道が開けてくるんです。信心は悟りと言われる。悟らして頂いて、おかげをこうむりたいと思うですね。どうぞ。